生まれなかった都市

観測日記とメニュー

インスタグラムの日本語

※推敲していません。

 

おでこの両サイドから顔の輪郭に沿って垂らした前髪を「触覚ヘア」と呼ぶが、これはおかしい。

顔まわりカットと触覚ヘアの基礎講座。イラストで学ぶ特徴とセルフカットのヒント|ホットペッパービューティーマガジン

虫の「触角」が元ネタになっていることは明らかだが、ピクシブ百科事典を除いて正しく「角」と書いているサイトはほとんどない。触角と触覚は全く別物なので、単なる誤用をこえていると思う。

 

たとえば「芸術」と「藝術」の使い分けに異常にこだわる人はいて、まあ大事だが、「独擅場」と「独壇場」ぐらいどうでもいいと完全に誤ったほうが慣用化しているし、そもそも「独壇」じたい存在しない言葉なので特に問題がない。ただ「触角」と「触覚」は今でも普通に使い分けるので、これは美容師の日本語感覚が基本的に鈍いことを表していると思う。そもそも虫の「触角」が「触覚ヘア」の起源であることを意識している美容師自体ごく少数ではないか。

こういう誤用が問題なのは、それ自体が誤解を招く(意思疎通の障害になる)から、というだけでなく、その人が文字を読んだり書いたりするのに慣れていない・繊細でないことを示唆してしまうところにある。自分もけっこうやるので、人のことは言えないのだけれど。昔、書評の中で「嫡出子」を「摘出子」と書いたことがあり、それは本当に恥ずかしかった。また、「レジリエンス」を「レリジエンス」としてレジュメを切りきったこともあり、こういうのは普通にある。

 

言い訳になるが、大きな間違いではあるけど、その人の資質を疑うほどにはならない間違いというのがあって、たとえば吉田健一が「初めて」の意味で「始めて」と使っていてもあまり気にならない。ただ、「言わざるを得ない」を「言わざる負えない」と書いている人を見るとかなり不安になる。「触覚」はこの部類に入る。「摘出」はどうだろうか…

 

それはさておき、珍しくインスタグラムを見ていたら「精子の濃さは人によりき」という表現を見かけた。これはおそらく「改憲ありき」のような「き」の誤用と、「人によりけり」の「けり」の用法が合体したものと思われる。

「人によりけり」の「けり」は過去の助動詞で、別に今回の用例では過去を指すとは限らないのだが、「人類は家畜とともに暮らしてきた」の「きた」のように、過去から現在にかけてそうでありつづけている性質を指す用法もあるらしい。ただ今回の場合は「人による」でいいわけで、わざわざ「けり」をつける必要がない。

他方、「ありき」の「き」は明確な誤用で、「はじめに言葉ありき」のように、順番を表す枕詞がなければ(あっても)、単に「あった」という意味にしかならない。

①〔文〕あった。存在した。「はじめに言葉ありき〔=新約聖書の文句〕」②はじめから決められていること。「はじめに結論ありきでは討論する意味がない」

「○○ありき」だけでも通用 – 毎日ことばplus

これこそ一般的には気にならないレベルの誤用だし、かなり人口に膾炙している言葉なので、許容する場合もあるだろうと思うが、「人によりき」と言っている人を見たら、あまり勉強をしないで生きてきた人なんだな、と感じてしまう。

この数日、諸事情でインスタグラムをダラダラ見ていたが、こういう日本語がかなり多く、「触覚」と似たものを感じる。インスタグラムばかりやっているとバカになるから、中高生はやらない方がいい。

モヤさまでよくいじられる、「グレープフルツジユス」のようなメニューの誤記について、終戦直後から高度成長期にかけて、教育をまともに受けられなかった人が、それでも何とか糊口をしのぐために必死の思いでお店をやりくりしてきた、そういう歴史の重みを感じてしまうので、今はあまり笑えなくなった。インスタグラムの日本語はそれとは違ってたんなる勉強不足なので、若いころからこんなものをやっている人はまともな大人にならないだろう。

 

 

 

山田邦子は普通に

良かった。コメントも基本外していないし、昔のテレビのノリでだらだら喋ろうとしたら今田のコントロールでぶったぎられて変な感じになった以外はそんなにおかしなところはなかっただろう。オズワルド推しなのはどうなんだ、みたいなのあったが、人並み以上にお笑いに興味はあるんだし(当たり前)、「好み」がダメなら外部から人呼んでガチガチのルール決めて機械的にやるしかないのでは。点差もそこまでおかしなものではないと思う(カベポスターと真空のネタはあれくらいの差をつけても不自然ではなかった)。てか「山田邦子の採点は順位を左右してない」ってそりゃそうだろ… ヨネダへのコメントも温かくてよかった。そういえば今田のキレが今年は悪かったな。

 

ウエストランドが優勝したのはめちゃくちゃ驚いたし今もピンときていない。ただものすごく悪いタイミングで優勝したように思う。昔から好きで単独とかラジオとか配信とか一通り追いかけているが、嬉しさよりも不安が勝つ。

 

不安というのは、数年来お笑いに起きている良くないことが今後ウエストランドをめぐって繰り返し起こり、それは輪をかけてひどいものになるだろう、という予感があるからだ。

 

芸人の高学歴化、お笑いを語るムーブメントの到来、youtubeコメ欄・twitterなどなど、いろいろなものが重なって、「お笑い批評」はかつてないほど「流行って」いると言っていいと思うが、当事者のコメントやファンの感想以外に批評として盛り上がっているように見えないし、一つひとつのクオリティも高くないことが多い。

 

クオリティが低くなる理由として、笑いが起きる仕組みや環境そのものを置き去りにしたまま、大きめの話に直結させようとする文章が多いことがある。たとえば以下は去年読んだ中で一番の駄文だった。

gendai.media

 

キーワードとして出ている「他者」と「豊か」がふわふわしたまま論が進んでいくので、そぎ落としたらなんか否定しない優しいお笑いの方がいいんだなぐらいの話にしかならない。それだと明確に弱いので世相とか最後に付け加えてみました、なんて、学生のレポートじゃねえんだよ。それに、もし世相につなげたいなら他の年と比較しなけりゃいかんだろ。

 

「漫才か漫才じゃないか」もそうだが、こういう大きい言葉に無理やり引き付けてお笑いを語ると失敗しやすい。Aマッソの炎上もそうだが、笑いと差別・倫理系の話になると特にこういう傾向が出る。

 

Aマッソの大坂なおみ騒動については、明確にAマッソが悪いと思うし叩かれて当然だろう。ただ、あれをうまく叩くのは相当難しい。叩かれる側にはいつでも「お笑いだから」の逃げがあるし、炎上一般の話として叩かれる側はまじめに反省しない=長い文章を読まないので、意味不明な文句が大量に投稿されているな、ぐらいにしか思わないだろう。

 

叩く側も叩く側でうまくできていないと思う。あれを「差別」と呼べるかは解釈が分かれるし、呼んだとして少なくとも悪意はなかったわけで、そうなると「悪意がなくても差別は差別」のロジックしか残されておらず、叩かれる側は「悪気はなかったのになんでそんなこと言われなきゃいけないんだ」でゴールなので、行き止まりになる(ただ当然、公然の場所で発言していいこと悪いことというのはあり、あれはそのラインを超えていたと思う)。要するに、叩く側叩かれる側の歩み寄りの余地がなく、叩いた言葉が叩かれた側を変える、ということが起こらないまま、「わからずや・リベラルサヨク・頭の固い奴ら」と「冷笑系ネトウヨ・アップデートされてないやつら」両陣営の分断のみ加速しているのだ。

 

これはやはり、つくる側・お笑い好きの側に刺さらない批評の言葉の貧困に大きな責任があると思う。だからこそ、お笑い批評は井口に笑われるし、笑われても仕方ないのである。

 

その傾向は「誰も傷つけない笑い」という言葉に象徴されている。少なくともあの言葉が芸人に強く影響し、それがネタ作りに反映されたという例はほとんどないのではないか。

www.huffingtonpost.jp

福徳「これは本当に、ネタができてから考えついたことです。ある意味では、後付けですよね。これは人を傷つけてないなってふと気づいただけです」

後藤「結果として、出来上がったものが誰も傷つけなくて、たくさんの人が笑ってくれるだろうなって思えるネタだった。

人を傷つけない笑いを作るとか、そこを目指して作ったわけではないですね。傷つけないってことをモットーにしてネタ作るのはなかなか難しい。誰がどこでどう傷つくか、わからないじゃないですか。

自分たちは、『これをやったらこういう人が傷つくやろうな』と思ってネタを作ってませんし、気を遣いすぎたらなんも出来なくなってしまう。だから、基本は自分たちがおもしろいと思ったもの、目の前のお客さんが笑ってくれると思うものをやるしかない、っていうだけですよね」

むしろこの言葉は免罪符として使われている。自分自身の笑いは無害で安心安全だ、というお墨付きが欲しい(とりわけ「こんな時代」には)美的勇気のない「弱虫」のための言葉である。これはそういう保証がなければ笑えない、という観客の軟弱さを表現しているのだ。徹頭徹尾、見る側のために作られた言葉だし、お笑い自体の必然性に求められて生まれた言葉ではない。さっきの「大きい言葉」のひとつだと思う。こういう言葉で語りつづけていると、どんどん分断は加速する。もっと言うと、お笑いをよく見ている人がこういう言葉を好きなことはあんまりなく、むしろ普段あまりお笑いを見ない人がこの言葉を使っている印象がある。

 

一般論として「批評」の意義について考える時、つくる側とみる側で分ける必要がある。「批評」はそれのどこがなぜ面白い/面白くないのか、誰にでもわかるかたちで説明する。つくる側にとって、「批評」はより面白いものをつくるために、新しい面白いものを考えるときに役に立つ。みる側にとって、「批評」はどういうものを面白いと感じるべきなのか、どういうものは面白くないと切り捨てるべきなのかを教えてくれるし、その人が面白いと思うものはなぜ面白いのかを知るときにも役に立つ。なぜ面白いかが分かると、他の面白いものにも出会いやすくなるし、新しい面白いものに出会えるようになる。もっと言えば、だれでも日常のなかで、つまらない笑いに遭遇し、不快な思いをしたことはあるだろう(特にお笑いファンなら)。そういった笑いと、劇場の笑いは何が違うのか、しっかり説明できなければ、自らの感覚を磨くことも難しいだろう。

 

今のお笑い批評はこのどちらの役割も果たしていないと思うのだ。そして、ウエストランドにとって、お笑い批評は絶対に必要である。

 

まずひとつに(これはウエストランドに限らないが)、「ウケたら正義」「おもしろ無罪」を許容してしまうと、それは「自分たちのお笑いが正義だというこりかたまった考え」につながっていくだろう。よくある話だが、「何も考えずに笑える」という形容は、単にその笑っている観客が何も考えずに済んでいるだけで、その隣には笑えない人、笑いたくない人がたくさんいることが多い(ザ・マミィの障がい者いじりのコントはひどかった。あとゾフィーの「メシ」もよくなかった。一般的な若い男女は笑えても、世代によってはかなりきついネタだった。フィクションは、現実ではないのに現実にそれが起きたかのような感情を味わわせる変わった娯楽であり、それを楽しめるか楽しめないかを決める観客個人の感覚は、現実・日常における経験と密接につながっている)。「おもしろ無罪」に穴をうがち、それをなぜ笑うべきではないのか、ではなぜ観客は笑ってしまったのか、そうしたことを丁寧に分析していくのは、批評の仕事だろう。とくにウエストランドのような「悪口」のネタは、放っておくと単純にマイノリティをみんなで嘲笑するだけの流れになってしまう。

 

ただ、ウエストランドの良さをネタの良さだけに限定するのはかなり的を外している気がして(「ただの悪口」「ヤフコメ」という評をいくつか見た)、というのもアイドルの悪口など、やや差し込み方が凡庸かな、と感じないでもないからだ(井口のラジオを聴いていると、少し感覚や題材が古いな、こすられつくしているな、と思うことが少なからずある)。それよりも、あの風貌や、観客の巻き込み方、間の作り方、太の声、いろいろと分析するべきものがあるように思う。そういう意味で、河野有理の評は当を得ている。

 

また、井口が口走った「共犯」という言葉も、ネタの根本にお笑いとしての批評性を与えるような、その構造の本質をついている。

 

これはウエストランドが批評を必要としている第2の理由につながると思うが、ウエストランドの笑いは実は正体をつかむのが難しく、以上のようなところをはっきりさせないと、一般的な本当の悪口の区別がつきにくくなるからだ。たとえば「あるある ちくわ」はそれこそ本当の意味でヤフコメレベルだと思うが、そうしたものとの線引きができないことは、とてももどかしいし、現にウエストランドの優勝は、そうした「ちくわ的なもの」を勢いづかせている。また、「あるなしクイズ」というフォーマットが提供されているぶん、遅かれ早かれ日常生活にあの笑いが侵入してくることは避けられない。こうしたものからどう身を守るかは、まじめに考えておく必要がある。

 

しかし、おそらく批評にこの流れは止められないだろう。ウエストランドが優勝した時抱いた不安は、以上のような懸念から来たものだ。

 

・単純に周りのネタが弱かったのも優勝の一因だったと思う。とくにダイヤモンドは、ライブで見た「おかおかこめこめ」のネタをやるものだと思っていたから驚いた。あれはないだろう。ヨネダも面白いが、ほめられるほどのネタではない。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

下北沢とか高円寺ってそんなに

いい街ですか?下北沢なんてそれこそ学生になってからライブで数えきれないほど行ったし、高校生の頃から学校が近かったのもあって何度か遊びには行ったが、特にやることもないし、チェーン店が並んだ登り坂下り坂の連続でうんざりするし、古着屋はあっても男子高校生にとって古着屋なんてクルトン専門店みたいなもので(あってもなくても同じ)、唯一魅力があったのは駅前の居酒屋だった。ただ高校生には縁もないし今は更地になってしまったしクルトン専門店は学生になってもクルトン専門店のままだった。

 

大学生になってからも町自体になんの思い出もなくてシアターミネルヴァの楽屋のぴりつき方とかそういうものしか覚えていないがミネルヴァの前にあったライブハウスのシェルターは2回だけ行ったことがある。一回目はhy4_4yhのライブが13時からあって夜はバイトだったのでスーツで行ったがそういうちょっとした逸脱が高揚感につながるくらいは青かった。hy4_4yhを初めて見たのは代官山LOFTでロマンポルシェ。を見に行ったときで、むしろロマンポルシェ。が対バンだったのに掟さんがちゃんと全裸で出てきて笑った。掟さんを見て「舞台上で全裸になってもいいんだ」と知り、たまの伝記を読んで「遅刻ってしてもいいんだ」と知り、牛女の単独を見て「多目的トイレでトランペットを吹いていいんだ」(当然ダメ)と知ったとか、マンガも映画もお笑いも音楽もすべてやっていいことを広げていくことだったのだと今になって思う。

 

2回目はmasonnaでこれは小田急沿線学生芸人ライブの合間に見に行った。妙に出演者数が多くてOBも現役も入り混じった比較的自由なライブだし卒業したばかりのまんぷくユナイテッドも一度だけ出ていたと思うがそんなに面白いライブではない。ただ自由なのが見たくて行くことはあったし出ることもままあって今やっているかどうかは知らない。masonnaは開演を30分遅らせて2分でライブが終わったのですごかった。今でも最高のライブだったと思う。

youtu.be

今こういうのを見て思うのはやっぱりこの人はどうやって食っていっているんだろうということで、ヨーロッパのいろんなところでツアーをやったりCDを出したりテレビに出たりといったことはあったらしいがこの音楽のタイプでそれで食っていけたとは当時の雰囲気を加味しても思えない。

たぶん高校から大学にかけての自分にとって「食っていく」みたいな問題系のいやらしさは耐えがたいものがあった。それは例えば自分の息子が14才とかになって、地下出身の芸人がテレビCMで驚いた顔をしたり笑顔をつくったりしてるのを見たときに「食っていかなきゃいけないから大変だね」とつぶやいたりしたら殴ってしまうだろうし最低限物は投げると思う。「食っていく」という事実の重みというか後味の悪さというかのどごしの気持ち悪さみたいなものを知らない中学生高校生大学生が「食っていく」みたいなことを言う賢しらさの薄気味悪さは今でも嫌だがそういう嫌さが出ないぐらい今の自分が大人かといえば心もとない。

そういえば大槻ケンヂが昔『サブカルで食う』という本を出していて今でも自分のバイブルだがそこに「月10万稼いでれば十分金がある」と書いてあってかなりこれは隔世の感がある。10万では今は相当厳しいだろう。マゾンナもそれなりのからくりがあったとしか思えない。

そういう怪しげな人がいっぱいいるはずの高円寺も今はエンジニアとボンボン大学生の町になってしまってクルトン専門店は乱立するわおっさんだらけだわいろいろなことが不快な町だった。その街というのも駅より北を指していて駅より南はそこそこ居心地が良かった。これは間違いなくて、チェーン店と個人店のバランスが取れていたし、いつも水浸しのコインランドリーとか高校生が番台をやっている銭湯とかデニーズとか立ち飲みとかそういうものにはそれなりの思い出があるが、それは高円寺だからそういう思い出があるのではなくて単に長く住んでいたからで、もしこれが中野でも茗荷谷でも赤羽でも二子玉川でも思い入れはあっただろう。長く住んでいる以上の愛が高円寺の人達にはあって、高円寺というアイデンティティにまでなってしまうとこれは救いようがない。

 

ただどこも思い入れがないわけではなくて例えば下北沢はバイト先の千歳船橋から帰る途中にマヂラブのM-1敗者復活の配信をスマホで見たとかそういう断片的な記憶はあって、千歳船橋はとにかく最高な町だった。今思い出すだけでもマック松屋さぼてんカフェコロラド丸亀製麺オオゼキまいばすけっとモスバーガー王将ファミマセブン五右衛門これが全部あって徒歩圏に銭湯まであった。しかも個人経営の居酒屋だってないわけではないし少し歩けば桜上水にもついて気分が良かった。ああいう町は素晴らしくて想い出もないわけではないが例えば朝セブンでレッドブルを飲んでバイト、昼ファミマでレッドブルを飲んでバイト、バイト終わって夜丸亀製麺食べて家帰って酒飲んで寝る、そういう繰り返しだけで日々が過ぎるというそれが思い出になって今がある。

20220430-0502 フィリピン、陰謀論、相続

・地元からかなり離れた土地の相続のため遠出をした。実際は相続といっても、祖父(故人)から父への土地相続にともなう名義変更であり、来年か再来年度から義務化するためとっととやらなくてはならない。

本来は祖父が亡くなった段階ですぐに終わらせるべきなのだが、地元の行政書士に頼むと報酬が一般的な初任給の3倍ぐらいかかるので、母が渋って引き延ばし、ずるずる何年も経ってしまった。ただし、登記に必要な書類には(固定資産評価証明を除き)有効期限がないので、塩漬け状態の書類でも手を入れれば息を吹き返す。書類の集め方、申請書類の書き方も、今時ネットの情報が充実しているので苦労することはない。

 

相続登記を自分でやってみた

 

記録のため、困ったことを列挙する。

・固定資産評価証明書は、不動産一件につき発行料が200円かかるため、少し高額になりがちだし、法務局に提出する際は最新年度のものが必要なので何度も取るのは手間である。3年に一度の評価替えを挟んでしまうと、計算しなおさなければいけないのでさらに大変になる。

・登記情報の全部事項証明書は提出の必要はないものの、とっておくと何かと便利である。ただ、たまに被相続者が未登記のまま建てた建物などがあると、固定資産評価証明には記録があり、課税もされているが、登記情報はない建物が存在することになり、登記の義務が生じる。

こういう場合は正直に登記するか、登記は後回しで土地だけ相続するか選ぶ。この辺は不動産関係の友人に聞いてなんとかした。友人がいない場合は最悪全部事項証明書が取れた範囲で名義変更すればいいんじゃないかと思うが、地番などがぐちゃぐちゃになっている場合は図書館などで調べる必要があるのかも。

・大卒の親戚がいて、春休み暇そうにしてれば、勉強もかねてこういう事務は頼むとよいと思う。四則演算と読み書きができればある程度まではできるレベルの作業だと思った。。

 

ほんらいかかったはずの手間賃が浮いたので本当に良かった。ついでに少し飲んだが、あまりにも人がいなくてがっかり。30年前は板前4人いて、並んでも入れなかったような店が、今はいけすにカビが生えて、板前も店長一人、カウンターにもおれぐらいで、21時には通りにも人がいなくなる。

 

・30日は蒲郡に行った。潮干狩り客が多いところは避けて、歩いて西浦温泉まで往路3時間弱かけて移動。人も少ないし最高だった。野良の潮干狩り場がたくさんあって、堤防沿いのガードレールから垂らされた縄をたぐり、テトラポットを超えて浜へ上り下りする人たちがいた。

途中のキャンプ場でそばを食べたり(妙にうまかった)しながら下山し、電車でまた蒲郡へ移動。50歩で終わってしまうような短い駅前地下街で飲む。開店したばかりの居酒屋で、40代くらいの派手めのオーナー、うだつのあがらなそうだが経験豊富な店長、骨格が16歳ほどだが隈と皴が30代のフィリピーナで回していて、フィリピーナには生れたばかりの赤ちゃんがいるようだった。途中隣に座った別のフィリピーナとも軽く話す。ドゥテルテ・マルコス支持で、アキノをバカにしていた。焼き鳥はうまかった。

いい具合に酔っぱらった状態で、次の店を紹介してもらったら連れていかれたのがフィリピンパブだった(こういうことじゃない)。3人ほどとビザや暮らし向きの話をして、すぐ帰ったが、妙に酒が回ってしまい、帰ったらふらふら。

digital.asahi.com

あっ!こっ、ここだ、このオーナーだ、この店だ…。

 

・最近はキャバ嬢や風俗嬢、婚活系、その他よく分からない仕事をしている人たちが日常について適当につぶやくTwitterをみるようにしている。とくに面白いことをいうわけでもない人たちが、ブログほど固まってもいないエピソードを(バズる文法以前の形態で)単発でポンポン出してくれるのが心地よい。こっちは知らん人を見るためにネットをやっているわけで、面白いものを見たいわけではない。

ただ気になったのは、反ワクチン・PCR陰謀論系のTwitterとキャバ嬢たちの親和性である。おそらく、反ワクチン→行政への不信→大麻推進でつながっていて、ここにヒップホップ成分が聞いてきたり、ウクライナ系の陰謀論がさらに上流から入ってきたりして、それを逆向きにたどった結果キャバ嬢から陰謀論までコネクトするのだと思う。

そしてこうした陰謀論は、世界観丸ごと預けられているわけではなく、「世の中が右利き用に出来ている」ぐらいのノリで気軽に生活に取り入れられているようだ。ユダヤ陰謀論も、ネット以外のリアルの知り合いやすれちがいから比較的聞くことがあるので、相当人口に膾炙しているのだろう。これ自体、どこまで制御すべきかは難しいと思うが、ただ誤った情報を流す人たちは早く潰すべきなのは間違いない。信じる側の問題ではもはやないので、リテラシー教育に知恵とコストつかうならアーキテクチャを整備すべき時期に来ている。

Bellator, 宮廷の諍い女など

bellator、毎週のように配信があるので見た。

Bellator 274

あんま印象に残った試合がない。タイトルマッチは飽きて見るのやめた。ボビー・キングにゴザリがぼろ負けしたのだけめちゃくちゃかわいそうだった。まあこれはドクターストップだなあ。ただキングの方が打撃戦強いから、なかなかグラウンドに持ち込めないのは仕方ない。

ランコントルがボディで潰れたのもなんとなく覚えてるが、そんな面白い試合ではなかった。完全に体パンパンのナロがブラウンに逆転負けしたのは面白かった。

あとジェイロン・ベイツがリーチ活かして押し勝ったのも見たが、そんなに気分はよくない。

あ、でもディアンナ・ベネットとキッシュの試合はよかった。ベネットは自分のペース創るのがうまいなあ。でも動きがキモい。

Bellator 275

単純に覚えてるってのもあると思うがこれは面白かった。ヴァンダーフォードはなんだったんだw軽いフック合わせられてふらついて、時間稼ぎで焦って組みにいったら一瞬で切られて終わりって情けなさすぎだろう。ムサシが強いっていうより…

カヴァナーvsマコート戦は感動した。打撃メインのカヴァナーと柔道メインのマコートで、基本グラウンドの闘いになったからマコートのペースなのかなと思ったらカヴァナーが粘る!マコートがアームロックきれいに極められてた。ただ女なので体の柔らかさで40秒持たせてラウンドの制限時間でなんとか耐えた、さすがにこれは男ならありえない。

そして2Rでまさかのカヴァナー膝故障!グラウンドで押してても足入れられてあっけなく倒されるし、これは勝ち目ないだろwとか思ってたら、3R続行して、負傷してる左足狙いで関節技かけようとするえげつないマコートをバンバン殴って判定勝ち。これは面白かった。というかあのエグい闘い方で負けたマコートは凹むよ…カヴァナー強かった。根性。

マコーマックvsペイジ戦も、女の体の柔らかさが悪い方向に出て、マコーマックが立ったままボコボコにされてた。ダブリン地元の選手、軒並みやられてるけど、これでいいんか。後遺症残らんことを祈る。

あとトゥンカラに勝ったダブリンのクラークも、肩外して1Rでなんとか勝ったけど、これ反則じゃないのか?マゴメドシャリポフのグラウンド力はすごかった。普通にうまい。トコフvsスカティッツィ戦、スカティッツィが上手いのはよく分かったが真面目なロシア人のトコフにアッパー合わせられて何もできなくなったら情けなすぎる。納得の負け。

 

ドラマ

宮廷の諍い女見てるが、面白い。雍正帝が似てる。実際、役人の腐敗を改善するため雍正帝ってかなり真面目に仕事しまくってたらしく、そのへんもちゃんと史実を反映している。「蘇州の絹」というワードも、16世紀以降の蘇州の発展が北京の後宮を支えていることの表現だろう。ただ演出はとにかくガバガバである。

そういや女医明妃伝、景泰帝がロマンスの中心にいるけど、どんな気持ちで見ればいいの?

雑記

・サバの塩焼き久々に食ったが、小さくなりすぎだろ!水産資源管理終わってるなあ。今のうちに食っとこう。

・維新のファウンダー、若者の命が大事だからウクライナは降伏しろとか言い出してて呆れた。祖国とか故郷を守るかどうかというのはその国の人が決めることで、他人が口出しすることではない。第一、こういうことを政治家が大っぴらに発言するのは、「わたしは日本が危機に陥っても、死ぬぐらいなら降伏を選びます」と言っているのと同じで、要するになにか一貫した信念があるわけではなく、権力を握ってそこからもってけるものをずっと持っていたい人たち、植民地の在地行政官みたいな感じなんだろう。まあそういう意味で一貫性はある・・・

BBCウクライナの地下シェルターで放送やってるの?!NHKが台湾のシェルターでラジオやるようなものだな。これぞソフトパワー、これぞ国益

・最近はノンアルコールで平日過ごしているが、気分がいい。どんどん肌つやもよくなってるし、しばらく続けよう。

 

20220227 星亨

起きて床屋に行く。最近男一人で切り盛りしてるので大変そうだ。生れてはじめてツーブロックにした。飯食って帰る。

松沢裕作『自由民権運動』面白かった。建白書から国会期成同盟愛国公党から自由党は何となくわかるものの、そこから秩父事件につながるのがよく分からなかったが、この本で何となく見通しがついた。

雑にまとめると、そもそも「国会をつくる」という目的自体は政府にも在野の活動家たちにも共有された目標だった。問題は、それをいつ、だれが作るかであって、在野の民権運動家たちにとっては、自分たちが国会設立のイニシアチブをとる=権力者になることが最優先であった。しかし、全国の結社をまとめ、ひとつの「私立国会」をつくる試みは、運動方針や内部対立によってグダグダしているうちに、結局政府側が先に国会をつくってしまうことで、先手を取られてしまった形になり雲散霧消する。

そうすると、国会開設運動は政党開設運動に横滑りするほかなくなるが、それは政府側の作ったゲームに乗ることになる。政府の建てた国会の議席をめぐって争うことは、結局は政府側に傾いた土俵で戦うことに他ならない。都市知識人系=立憲改進党はそっちの路線に入ることに躊躇しなかったが、本気の「私立国会」をつくりたかった自由党系の運動家はなかなかその方針に踏み切れない。

となると、お金も武力もないから全面戦争=クーデターもできない自由党が取れる路線は、お金が欲しくて地方の有力者に声をかけたり、武力含めた支持が欲しくて田舎のゴロツキ=ヤクザ、博徒、日雇い労働者に声をかけたりする。

ただ、これら下層民たちにとって、国会うんぬんよりも重要だったのは日々の生活であり、自分の家族の将来だった。彼らにとって「自由民権運動」とは、政治運動である以前に、ユートピアの約束だった。「自由党とかの結社に入れば、昔のお侍さんみたいに、一生生活に困らず楽しく暮らせる」——そんな解放の幻想が民衆に行き渡り、血気盛んな過激派の運動家たちも合流した結果、松方デフレによる不況を背景に起きた紛争が秩父事件であった。

………………………

NATOの東方拡大が問題だと言ってる人がいて、それはそうかもしれないが、民主化し始めた国がNATOに入りたいと思うのはある意味当たり前で、このタイミングで軍隊を動かしてそんな政権をぶっ潰そうとするのは論外であり、いくらアメリカが嫌いだったり、NATOの蛮行とやらに嫌気がさしていると言ったって、既存の国際秩序を無視して戦争を始めたロシアは最低最悪であることに間違いはない。

………………………

有泉『星亨』を借りようと思って図書館に行ったらちょうど閉まる時間だった。悔しいので古本屋をぶらぶらして、コーヒー飲む。スミス&メスキータ『独裁者のためのハンドブック』飛ばし読みしたらいまいちよく分からなくなった。稲葉『社会倫理学講義』自分としては『政治の理論』の続編として読んでいる。

日曜討論見る。テレビのニュースを見るたびに思うが、知識を伝達するにあたって、いわゆる「わかりやすさ」と「単位時間あたりの情報量」の面でこれを超えるコンテンツは今後出てこないと思う。「複雑さ」や「正確さ」は本であり、インターネットのコンテンツは正直言ってこれらに遠く及ばない。

ネットをはじめとするニューメディアが新聞・雑誌・テレビを代表とするオールドメディアを打ち倒すという夢は何度も語られてきたが、ネットで視聴される情報の大半はオールドメディア発の情報であるし(まとめサイトの冒頭に出てくるソースを見よ)、インターネットに基盤を置いたメディアで国際的に情報網を張って速報だせるような巨大組織は日本にはいまだに存在していない。戦争報道などを見るにつけ、結局はオールドメディアに頼るほかないことがよく分かる。

 

ザ・マミィ、戦争、砂粒、判断停止

・ザ・マミィがKOC決勝でやった障がい者いじりのコントは今思い出してもはらわたが煮えくり返る。思うに、「人を傷つけない笑い」という言葉が悪なのは、ある笑いを「人を傷つけない」ものとして固定してしまうことで、観客の思考停止を誘発するからだ。あらゆる笑いは人を傷つける危険をはらんでおり、それに気づかないからこそ笑いをめぐる問題は難しいのであって、これは絶対に大丈夫です、という品質保証付きの笑いは存在しない。そういうお墨付きが欲しいからこそ、こういう名づけが流行るのだろうが、観客は自分が面白いと思ったものを笑う勇気を持つべきだと思う。そしてそれが人を傷つけたなら、笑うのをやめればいいのである。その繰り返ししかない。これは人を傷つけないから大丈夫、と思ってしまったら、こうしたことに気づき反省する機会は失われてしまうだろう。

KOCのザ・マミィが醜悪だったのは、本来いじってはいけない(ようにおれには見える)存在に対して、明らかに意図的な産地偽装をやってのけたからだ。駅で大声を出しているおじさんがいるとしたら、彼らは基本的に精神疾患を抱いており、保護・福祉の対象であると考えてよい。そういう人を笑うことは避けた方が良い。

ちなみに有名な話だが、刑務所に入っている人間はかなりの率で精神的な障害を抱えており、自分一人では生きていけないタイプの人間であることが多い。酒井のキャラはこうした層に近かっただろう。あのネタは、それっぽく歌を歌ったり、酒井の「笑えるクズ」キャラでリアルな笑えなさを中和したりすることで、なんとか安心安全な雰囲気を作っていたが、正直本当に最悪な気分になって途中で見るのをやめた。

あれを笑う人が差別主義者で悪人だとはまったく思わないが、これは大丈夫なやつか?という疑問が生まれないのであれば、「第七世代」的な笑いに感性を殺されているということにはなる。それも罪はないのだが。

 

---------------------------------------------------------------------------------------

フランス語の『逃走する』には『漏れる』という意味も含まれています。どんなに厳密に見えるシステムがあったとしても、実際にはそこからどんどん漏れていくものがある。漏れた先には水たまりができ、そこに新しい生態系が出来ることもあるのです

digital.asahi.com

これを読んで思い出したのは、修士論文を書く時に出会った内村剛介の文章だ。1968年、チェコ民主化運動をめぐる一節は、日本の新左翼をしびれさせた。共産党支配下にあったチェコスロバキアは、当然ソ連の言いなりになっていたわけだが、第一書記が交代すると、表現・集会・政治経済をめぐる抑圧が一気にゆるみ、人々は民主主義を謳歌した。この状況を憂慮したソ連チェコに軍事介入をし、夢ははかなくついえた。

完全武装した反動巨人に歯向かいうるのは、弁証法的反語を用いて言えば、組織を抜き出た個人ひとりひとりであるだろう。それだけが、いわばキャタピラに押えられてもつぶれない砂のように、よってたかって反動の巨体をとり押えるだろう。キャタピラが奔命に疲れ切ったときに。チェコ下放送の出現はすでにそれを暗示している。

当然「反動巨人」はソ連、「砂」はチェコの市民を指すわけだが、今となっては「反動巨人」をロシア、「砂」をウクライナの市民に読みかえざるをえない。

強権的な政府が暴力を用いて国民を抑圧しようとするとき、ひとりひとりができることは限られている。こういった大きな動きの前に、個人はなすすべもない。しかし、巨人が疲弊した時、彼を押さえるのも砂である、というのも真実であり、一つ一つの砂粒が集まった時、いつの間にか「新しい生態系」が生まれる土壌になっているかもしれない。人間を信じるしか、できることはない。

 

・こういうことがあってもロシア系の民家や教会、商店が攻撃を受けないのが日本のいいところ、みたいなことを言ってる人がいたが、正直今後一番同じような動きをするリスクがあるのは中国で、中国が同様の動きに何らかのタイミングで出たとき、日本国内で中華系の民家・商店が攻撃を受けない保証はないし、おそらく攻撃を受けてしまうだろう(ウトロですら燃やされたのだ)。ありうる未来を考え、とにかく落ち込む週末になりそうだ。

 

・これを機に改憲、のような動きには断固反対したい。正直安全保障をめぐる問題はよく分からないことが多いものの、自衛隊をさらに強化したり、憲法でその存在を認めたりすることは国庫への甚大な負担になるだけでなく、東アジアのパワーバランスの変更にもかかわってくるため、気軽に触れられる領域の問題ではないということは分かる。というか今の日本は他にいろいろやる事があって忙しいので、そうした問題の政治的な優先順位はかなり低いところにあるはずだ。

そもそも資源も人材もない日本に軍隊があったところで、安全保障上の問題は何ら解決しないだろう。それらの問題については、落ち着いてから考えればよい。今の時点では判断を保留しておくことが、賢い人間の振る舞いであると思う。