生まれなかった都市

観測日記とメニュー

山田邦子は普通に

良かった。コメントも基本外していないし、昔のテレビのノリでだらだら喋ろうとしたら今田のコントロールでぶったぎられて変な感じになった以外はそんなにおかしなところはなかっただろう。オズワルド推しなのはどうなんだ、みたいなのあったが、人並み以上にお笑いに興味はあるんだし(当たり前)、「好み」がダメなら外部から人呼んでガチガチのルール決めて機械的にやるしかないのでは。点差もそこまでおかしなものではないと思う(カベポスターと真空のネタはあれくらいの差をつけても不自然ではなかった)。てか「山田邦子の採点は順位を左右してない」ってそりゃそうだろ… ヨネダへのコメントも温かくてよかった。そういえば今田のキレが今年は悪かったな。

 

ウエストランドが優勝したのはめちゃくちゃ驚いたし今もピンときていない。ただものすごく悪いタイミングで優勝したように思う。昔から好きで単独とかラジオとか配信とか一通り追いかけているが、嬉しさよりも不安が勝つ。

 

不安というのは、数年来お笑いに起きている良くないことが今後ウエストランドをめぐって繰り返し起こり、それは輪をかけてひどいものになるだろう、という予感があるからだ。

 

芸人の高学歴化、お笑いを語るムーブメントの到来、youtubeコメ欄・twitterなどなど、いろいろなものが重なって、「お笑い批評」はかつてないほど「流行って」いると言っていいと思うが、当事者のコメントやファンの感想以外に批評として盛り上がっているように見えないし、一つひとつのクオリティも高くないことが多い。

 

クオリティが低くなる理由として、笑いが起きる仕組みや環境そのものを置き去りにしたまま、大きめの話に直結させようとする文章が多いことがある。たとえば以下は去年読んだ中で一番の駄文だった。

gendai.media

 

キーワードとして出ている「他者」と「豊か」がふわふわしたまま論が進んでいくので、そぎ落としたらなんか否定しない優しいお笑いの方がいいんだなぐらいの話にしかならない。それだと明確に弱いので世相とか最後に付け加えてみました、なんて、学生のレポートじゃねえんだよ。それに、もし世相につなげたいなら他の年と比較しなけりゃいかんだろ。

 

「漫才か漫才じゃないか」もそうだが、こういう大きい言葉に無理やり引き付けてお笑いを語ると失敗しやすい。Aマッソの炎上もそうだが、笑いと差別・倫理系の話になると特にこういう傾向が出る。

 

Aマッソの大坂なおみ騒動については、明確にAマッソが悪いと思うし叩かれて当然だろう。ただ、あれをうまく叩くのは相当難しい。叩かれる側にはいつでも「お笑いだから」の逃げがあるし、炎上一般の話として叩かれる側はまじめに反省しない=長い文章を読まないので、意味不明な文句が大量に投稿されているな、ぐらいにしか思わないだろう。

 

叩く側も叩く側でうまくできていないと思う。あれを「差別」と呼べるかは解釈が分かれるし、呼んだとして少なくとも悪意はなかったわけで、そうなると「悪意がなくても差別は差別」のロジックしか残されておらず、叩かれる側は「悪気はなかったのになんでそんなこと言われなきゃいけないんだ」でゴールなので、行き止まりになる(ただ当然、公然の場所で発言していいこと悪いことというのはあり、あれはそのラインを超えていたと思う)。要するに、叩く側叩かれる側の歩み寄りの余地がなく、叩いた言葉が叩かれた側を変える、ということが起こらないまま、「わからずや・リベラルサヨク・頭の固い奴ら」と「冷笑系ネトウヨ・アップデートされてないやつら」両陣営の分断のみ加速しているのだ。

 

これはやはり、つくる側・お笑い好きの側に刺さらない批評の言葉の貧困に大きな責任があると思う。だからこそ、お笑い批評は井口に笑われるし、笑われても仕方ないのである。

 

その傾向は「誰も傷つけない笑い」という言葉に象徴されている。少なくともあの言葉が芸人に強く影響し、それがネタ作りに反映されたという例はほとんどないのではないか。

www.huffingtonpost.jp

福徳「これは本当に、ネタができてから考えついたことです。ある意味では、後付けですよね。これは人を傷つけてないなってふと気づいただけです」

後藤「結果として、出来上がったものが誰も傷つけなくて、たくさんの人が笑ってくれるだろうなって思えるネタだった。

人を傷つけない笑いを作るとか、そこを目指して作ったわけではないですね。傷つけないってことをモットーにしてネタ作るのはなかなか難しい。誰がどこでどう傷つくか、わからないじゃないですか。

自分たちは、『これをやったらこういう人が傷つくやろうな』と思ってネタを作ってませんし、気を遣いすぎたらなんも出来なくなってしまう。だから、基本は自分たちがおもしろいと思ったもの、目の前のお客さんが笑ってくれると思うものをやるしかない、っていうだけですよね」

むしろこの言葉は免罪符として使われている。自分自身の笑いは無害で安心安全だ、というお墨付きが欲しい(とりわけ「こんな時代」には)美的勇気のない「弱虫」のための言葉である。これはそういう保証がなければ笑えない、という観客の軟弱さを表現しているのだ。徹頭徹尾、見る側のために作られた言葉だし、お笑い自体の必然性に求められて生まれた言葉ではない。さっきの「大きい言葉」のひとつだと思う。こういう言葉で語りつづけていると、どんどん分断は加速する。もっと言うと、お笑いをよく見ている人がこういう言葉を好きなことはあんまりなく、むしろ普段あまりお笑いを見ない人がこの言葉を使っている印象がある。

 

一般論として「批評」の意義について考える時、つくる側とみる側で分ける必要がある。「批評」はそれのどこがなぜ面白い/面白くないのか、誰にでもわかるかたちで説明する。つくる側にとって、「批評」はより面白いものをつくるために、新しい面白いものを考えるときに役に立つ。みる側にとって、「批評」はどういうものを面白いと感じるべきなのか、どういうものは面白くないと切り捨てるべきなのかを教えてくれるし、その人が面白いと思うものはなぜ面白いのかを知るときにも役に立つ。なぜ面白いかが分かると、他の面白いものにも出会いやすくなるし、新しい面白いものに出会えるようになる。もっと言えば、だれでも日常のなかで、つまらない笑いに遭遇し、不快な思いをしたことはあるだろう(特にお笑いファンなら)。そういった笑いと、劇場の笑いは何が違うのか、しっかり説明できなければ、自らの感覚を磨くことも難しいだろう。

 

今のお笑い批評はこのどちらの役割も果たしていないと思うのだ。そして、ウエストランドにとって、お笑い批評は絶対に必要である。

 

まずひとつに(これはウエストランドに限らないが)、「ウケたら正義」「おもしろ無罪」を許容してしまうと、それは「自分たちのお笑いが正義だというこりかたまった考え」につながっていくだろう。よくある話だが、「何も考えずに笑える」という形容は、単にその笑っている観客が何も考えずに済んでいるだけで、その隣には笑えない人、笑いたくない人がたくさんいることが多い(ザ・マミィの障がい者いじりのコントはひどかった。あとゾフィーの「メシ」もよくなかった。一般的な若い男女は笑えても、世代によってはかなりきついネタだった。フィクションは、現実ではないのに現実にそれが起きたかのような感情を味わわせる変わった娯楽であり、それを楽しめるか楽しめないかを決める観客個人の感覚は、現実・日常における経験と密接につながっている)。「おもしろ無罪」に穴をうがち、それをなぜ笑うべきではないのか、ではなぜ観客は笑ってしまったのか、そうしたことを丁寧に分析していくのは、批評の仕事だろう。とくにウエストランドのような「悪口」のネタは、放っておくと単純にマイノリティをみんなで嘲笑するだけの流れになってしまう。

 

ただ、ウエストランドの良さをネタの良さだけに限定するのはかなり的を外している気がして(「ただの悪口」「ヤフコメ」という評をいくつか見た)、というのもアイドルの悪口など、やや差し込み方が凡庸かな、と感じないでもないからだ(井口のラジオを聴いていると、少し感覚や題材が古いな、こすられつくしているな、と思うことが少なからずある)。それよりも、あの風貌や、観客の巻き込み方、間の作り方、太の声、いろいろと分析するべきものがあるように思う。そういう意味で、河野有理の評は当を得ている。

 

また、井口が口走った「共犯」という言葉も、ネタの根本にお笑いとしての批評性を与えるような、その構造の本質をついている。

 

これはウエストランドが批評を必要としている第2の理由につながると思うが、ウエストランドの笑いは実は正体をつかむのが難しく、以上のようなところをはっきりさせないと、一般的な本当の悪口の区別がつきにくくなるからだ。たとえば「あるある ちくわ」はそれこそ本当の意味でヤフコメレベルだと思うが、そうしたものとの線引きができないことは、とてももどかしいし、現にウエストランドの優勝は、そうした「ちくわ的なもの」を勢いづかせている。また、「あるなしクイズ」というフォーマットが提供されているぶん、遅かれ早かれ日常生活にあの笑いが侵入してくることは避けられない。こうしたものからどう身を守るかは、まじめに考えておく必要がある。

 

しかし、おそらく批評にこの流れは止められないだろう。ウエストランドが優勝した時抱いた不安は、以上のような懸念から来たものだ。

 

・単純に周りのネタが弱かったのも優勝の一因だったと思う。とくにダイヤモンドは、ライブで見た「おかおかこめこめ」のネタをやるものだと思っていたから驚いた。あれはないだろう。ヨネダも面白いが、ほめられるほどのネタではない。