生まれなかった都市

観測日記とメニュー

漫才に関する偽の論争について

 

「漫才か漫才じゃないか論争」という「論争」があったらしい。詳しいことは書きたくないが、何より絶望したのはそれをある種の「飯のタネ」というか「ネタ」にしようとする「お笑いが好きな人」たちの心性で、その点R藤本のブログの記事だけは救いだった。

ameblo.jp

収まったようなので書きますが、M-1が終わって数日間、「あれは漫才じゃない論争」みたいなのを何度も目にしたですが、一体誰が「漫才じゃない」などと言っていたのでしょうか


少なくとも自分はそんな意見、一度も見なかったし、よほど多数でない限りは全く相手にしなくていいレベルの意見であり、いちいち反応して論争などと言ってほしくないと思っていたのですが、匿名みたいな人ではなく、けっこう偉い人の発言だったりしたんですかね?だとしたらすみませんとも思いませんが…
 
M-1の予熱が芸人たちを過剰に反応させてしまっただけなのか、わざと取り上げてトークのネタにしたかっただけなのか、ただの素人ネットニュース記者のアクセス稼ぎだったのか。
話題にならなくなった今となっては分からないし、調べようとも思いません。
お笑いについて語りたいという欲望は何なんだろうか。「全く相手にしなくていいレベルの意見」であるにもかかわらず、その「意見」に真剣に向き合う人たちがテレビの中にも外にも多かった(ように見えた)のは、そういう「意見」に対する義憤がかき立てられたから、というより、お笑いについて語りたい、うまいこと言いたいという欲望が刺激されたからではないのか。そんなくだらない欲望があるのだとしたらお笑いなんか見ないほうがよい。
 
そもそも漫才か漫才じゃないかなどということは最初から誰も気にしていないことであるばかりか、お笑いファンを自認する人にとっては「漫才である」もしくは「漫才とは漫才を超えるものである」というたぐいの結論(どちらの立場をとるにせよ優勝者を肯定することが求められている)しか初めから用意されていない論争であり、問題はその結論に向かうためどのように適当な言葉、ありあわせの言葉を用意してつなぎ合わせるかであって、そこに議論としての厳密さだとか実際のネタそれ自体への誠実さだとかそういったものが一つも求められていなかったことは明らかだ。いま調べてみたが、2月の時点でこの論争について話している人はほぼいない。だとすれば、お笑いが好きな人たちの義憤やら何やらはその程度のものだったということで、結局「語りたい」欲望が満足すればそれで終わり、笑いについて「考えたい」人なんて誰もいないことがよく分かった。
 
根拠とかそういうものが大事なのではない、おれが語ったのは「感想」であり、「考えたい」なんていうのはどうでもいいんだというのは一理あるが、そういう感想を語りたい気持ちがじぶんには不思議で仕方がない。自分にとってはお笑いの感想なんてテレビを見ながら一言二言つぶやいてしまう程度のものであって、それを契機に何かを考えてしまったらそれを文字にすることも「語る」こともあるだろうがそれはその前に「考える」が作動したかぎりの話だ。お笑いファンを自認する人たちがここまで執拗に感想をだらだら語って恬としているのがじぶんには空恐ろしい。感想を弄することがどれほど堕落した営みかを少し書く。これも感想だろ、とか言ってくる人はもう読まなくていい。
 
確かに、お笑いを考え、それを語ることはとても重要な営みだ。それはコンテスト至上主義…「面白ければそれでいい」的な、学校的な、NSC的(横並びでよーいどん)な発想…を超えるために必要なことである。「面白ければそれでいい」という主張は「いつ」の「誰にとって」を欠いている点で既存の「面白」の再生産に過ぎない。その隘路がドキュメンタルであって、コウテイであって、Aマッソの炎上だろう。お笑いを見ることが最近自分にとってしんどいことになりつつあるのもそれと関係している。「いつ」や「誰にとって」の視点を導入するとは、いまの「お笑い」とそれが好きな私たちを相対化し、新しい笑いに開いていくために、そして一人の観客であるおれがじぶんの笑いを客観視し、他の人と共有するために絶対に必要なことである。これらを欠いた笑いは硬直し、「必死」なものになってしまう。必死なものは笑えない。必死さは見ている人にしんどさを与える。銀兵衛やママタルト、ストレッチーズ、ネタパレ、ミヤネ屋、さんま、審査員と審査員叩き、どれも同じしんどさで、笑いは楽しみではなく暴力に、笑い笑わせるために自分を犠牲にし無理をするような態度になってゆく。
 
笑いは自由になるためにある。その自由を目指すことが観客と演者には求められる。心の底から笑い、解放されるために演者は芸を磨き、観客は感性を育てる。必要なのは笑いによる救いを求める原初の欲望であり、「感想を言いたい」欲望などではない。彼らはこの初発の欲望、笑いへの忠実さを失い、その残り香をしがもうとする。じぶんが聴きたいのは、より深い救い、より開かれた自由へと笑いを導くような言葉であり、今の自分の笑いを正当化するための言葉ではない。嬉々として自らを感想を駄弁る自動機械にして、自由を放棄してしまう「お笑いファン」たちは自分の目指す観客ではないし、そんな人たちと一緒に笑いたくない。論争を目にした時の絶望は、この孤独感が理由だったわけだが、笑うときはだれでも最初から孤独なのだと思う。