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なぜそんなに戸籍が重要なのか(下夷美幸『日本の家族と戸籍——なぜ「夫婦と未婚の子」単位なのか』)

下夷美幸(2019)『日本の家族と戸籍——なぜ「夫婦と未婚の子」単位なのか』、東京大学出版会

日本の家族と戸籍 - 東京大学出版会

目次(飛ばしてよい)

第1章 戸籍の何が問題なのか
第2章 「家族単位」という選択――民法・戸籍法改正案起草委員・幹事の「回顧談」から
第3章 「家族単位」成立の時代性――法務官僚の「回顧談」から
第4章 戸籍と格闘する人々――婚外子にまつわる「身の上相談」から
第5章 戸籍の不条理――結婚・離婚・再婚にまつわる「身の上相談」から
第6章 家族政策としての戸籍制度

 

要約

1871年の戸籍法以降、戸籍は日本国民の家族の形の基礎として力を発揮し続けてきた。旧民法の「家」制度が撤廃された戦後ですら、「家」に代わって「夫婦と未婚の子」を戸籍の編成単位とすることで、「結婚した夫婦とその子からなる家族こそが正当な家族、とみなす考え方」すなわち「「婚姻家族」規範」が国民に浸透していった(1章)。

そもそも個人の身分に関する公証ツールにすぎない戸籍が戦後も家族単位で編成されたのはどのような事情があったのか、川島武宜我妻栄、横田正俊、村上朝一といった戸籍法改正案の起草委員たち、また実務に関わった司法省官僚・青木義人などの言葉をもとに記述する(2・3章)。そこで分かることは、戸籍のイデオロギー的側面に自覚的であるがゆえに戸籍の個人カード方式を提唱した川島をはじめとして、一部の当事者たちは「家族方式よりも個人方式がベターである」と考えており、GHQからもそうした圧力が与えられていた、ということである。それでも家族単位が選択されたのは、

  • 戦後の紙不足
  • 相続に際する家族単位戸籍の機能性の高さ
  • 家族を別々に記述することに伴う業務過多
  • スムーズな事務作業のために必要な役人および戸籍請求者の共通了解の維持
  • 保守派および一般大衆からの戸籍に対するこだわり・個人単位の戸籍に対する反発(婚外子が戸籍に記載されることは「戸籍が汚れる」として忌避された)

などに直面してのことであり、一言でまとめるならば戸籍に対する技術的な関心が上回ったがゆえの帰結だった。しかし、戸籍が電算管理されるようになった現在であれば、個人単位の戸籍を中央のデータベースにひとまとめにすることも不可能ではないはずであり、「忘れられた理念」としての個人単位は今こそ復活させることができるのではないか。

個人単位の戸籍が重要なのは、それが機能的に家族単位を上回るからというよりも、家族単位の戸籍が人々の暮らしにもたらす弊害が存在するからである。4章と5章は、そうした弊害がいかなるものであり、何がその弊害の原因なのか、60年以上にわたり連載されている読売新聞の「人生案内」から事例を拾い上げ、それらを分析することで明らかにする。

筆者が「人生案内」に掲載された相談内容に見出したのは、戸籍を家族と同一視する「「戸籍=家族」観念」であった。この観念は、戸籍を家族の判断基準とする態度であり、「婚姻している夫婦と未婚の子」という規範に収まらない「父親に認知された/されていない非嫡出子」をめぐるトラブルや、非嫡出子に対する差別意識を生産する。

たとえば、自宅出生が減少しほとんどの出産が病院などの施設で行われるようになる70年代以前には、非嫡出子が戸籍に記載されることを避けるため、生まれた非嫡出子を兄弟姉妹や父母の嫡出子として届け出ることが多々あった。結果として子どもは生みの親とは異なる存在を父母として認識し、その名字の下で生きていくことになる。

また、父親が婚姻している母親以外とのあいだに設けた非嫡出子に関しては、旧民法上は父親から認知されれば「庶子」として戸籍に登録されたが、戦後は認知があっても婚姻家族側の同意がなければ入籍できないようになった。結果として、非嫡出子は父親から認知されにくくなり、また認知されても自らの望む戸籍に入籍できない可能性が生まれた。婚姻家族としては、相続の関係上できるかぎり家族外の非嫡出子の入籍は避けたいはずである。また非嫡出子や養子などの情報が戸籍に掲載されることは、当事者にとって辛い出来事であるだけでなく、進学・就職・結婚といったライフステージ上のイベントにおいても当人に不利をもたらす可能性が高い。

他にも、離婚を経て再婚した男性の子どもを新しい婚姻家族の戸籍に入れるか否か、離婚を承諾しない夫から逃れた先で事実婚状態で設けた子どもの戸籍を元夫の戸籍から外すことができるかどうかなど、戸籍が家族単位であるがゆえに起こるトラブルは多岐にわたり、それが長年の間さまざまな人びと、特に「婚姻家族」規範から外れた人々に苦しみや悲しみを引き起こしている。こうした状況は是正されねばならず、筆者がその解決策として提示するのが、個人単位による戸籍の編製である。

重要箇所引用(飛ばしてよい)

出生登録を偽ることは、子の一生に関わる重大な問題であるが、婚外子の母親もその親族も、非嫡出子の記載を戸籍の「汚れ」とみなし、これを回避しようと真実を曲げて届け出るのである。人の存在証明の真実性よりも、戸籍の「汚れ」を忌避する意識が上回り、当事者や周りの親族がこぞって嫡出子至上主義に陥っているのは、婚姻届けを出した夫婦とその間に生まれた子のみからなる家族こそが正当な家族であり、「あるべき家族」である、とみなす「婚姻家族」規範が社会に浸透していることの反映である。(239)

こうしてみると、氏に基づく家族単位の戸籍制度が、人びとの「家族」に関する認識枠組みに影響を耐え、「婚姻家族」が規範として浸透し、さらにその「婚姻家族」規範のもとで戸籍制度が運用されることにより、規範が強化されているのが分かる。(241)

婚外出産、離婚、再婚の当事者は、「夫婦とその間に生まれた子のみ」の戸籍、あるいは、限りなくそれに近い戸籍を確保しようと懸命になっている。それは「婚姻家族」規範に縛られ、それに抗することもできず、もがき苦しむ人々の姿である。(243)

就職や結婚といった人生の重要なイベントで戸籍謄本が活用されることから、人々は不利を被ったり、差別を受けたりしないよう、「婚姻家族」の戸籍にこだわるのである。こうして、家族単位の戸籍は人々に「婚姻家族」という「あるべき家族像」を目に見える形で示し、それが人生を左右するものとして意識化され、規範化されていくのである。そして、戸籍制度に裏打ちされた「婚姻家族」規範は、広く人々の家族に関する意識や行動の基準となり、現実の家族を「婚姻家族」という「あるべき家族像」へと方向づけていく(247-248)

筆者はこの家族単位の戸籍が日本の家族のあり方の基底をなしてきた、と考えている。つまり、民法(家族法)と戸籍法が一体的に運用される仕組みのもと、事実上、親族単位の戸籍が日本社会における家族のあるべき姿を作り上げてきた、という見方である。そしてそれが、現代の家族が抱える問題にも通底しているのではないか、とみている(18)

感想

面白い本だったが、同意できない部分がいくつかあった。

上に引用したように、本書の基底をなす論理は以下のように展開している。

  1. 戸籍が家族単位で編成され、それが国民の日常生活において運用される。
  2. 「婚姻家族」規範が国民の意識に刷り込まれる(=個人が戸籍という家族イデオロギー装置を通じて主体化される)
  3. 嫡出子至上主義や戸籍の「汚れ」を忌避する発想が生まれる。
  4. 戸籍をめぐるトラブルが司法、行政、生活の場で起こり、その結果、規範(2)が強化される。

この1から2への移行を説明する論理として下夷が引用するのが、利谷信義や松浦寿輝(「国家という装置」には国民を登録し定位置に固定しようとする「非人称的な欲動」がある…)であるが、あまり説得的とは言えない。

というのも、まずそもそも彼らの論述が「上から」の論述、言い換えれば概念により出来事を説明する方向性の議論であり、実際に国民意識がそのような制度の下で生産されたかどうかという事実レベルで立証されたものではないからだ。この上からのベクトルとは逆方向の性質を持つものとして本書の4・5章は位置づけられなければならないだろう。すなわち、国民が自分たちを「国民」として分類し、家族が自分たちを「家族」として分類する、そのカテゴリーの適用がどのような言語的連関のもとで営まれており、そこに家族単位の戸籍がどのように作用しているか、ということを「人生案内」をもとに確認する作業があってはじめて、1から2への移行は達成される。しかし、4・5章の記述はそのような目標を達成するようにはなされておらず、むしろ1章で構築した上記の論理を反復し、そこに資料を位置づけているだけになってしまっている(部分がいくつかある)。

また、1から2への移行を実証するため、下夷は戸籍の日常性を強調し、この日常性ゆえに戸籍が人々の意識を形成していくことを強調するが、引用された「人生案内」を読むかぎり、むしろ日常的には事実婚であったり、養子であることを意識しなかったり、あまり問題のない日常を送っている人たちが、結婚や離婚をきっかけに戸籍を見たことで「汚れ」に気がついたり問題が露見するというパターンが多く、むしろ日常的なルーティンとはすこし外れたところに戸籍が位置付けられているように読める。

確かに、戸籍の「汚れ」を避ける意識は、「夫婦と未婚の子」単位という戸籍の編製と密接に関わっているだろうが、その戸籍が日常生活に浸透することで「婚姻家族」規範が人々の意識に植え付けられた、と想定する正当な理由はない。とはいえ、ここについては下夷も慎重であり、上で引用したように「事実上、親族単位の戸籍が日本社会における家族のあるべき姿を作り上げてきた」という言葉を使っている。しかし、「事実上」とはどういう意味だろうか?「結果的に」という意味であれば、すでに書いたように実証的な裏付けを欠いているというしかないだろう。これは、下夷が自身の文献調査の本書における役割を説明する適切な言葉を持っていないことを意味しているのではないだろうか。

加えて、249ページで下夷は日本の婚外子率のグラフを引き、「日本の婚外子率は戦後急速に低下」しており、「この動きに戸籍制度が影響していないはずがない」とまで書いているが、グラフの傾きはグラフの横軸の左端である1920年から65年までほぼ変化しておらず、婚外子の減少が特段戦後の現象であると断言することは(少なくともこのグラフからは)できない。であれば、戦後はじめて戸籍の編製単位となった「夫婦と未婚の子」をモデルとする「「婚姻家族」規範」の存在を想定する必要もない。さらに言えば、規範が戸籍の運用により「強化」される、というのも、よくわからない。何をもってであれば、規範が「強化」されたと言うことができるのだろうか?

婚外子を避ける意識、結婚届を出した夫婦とその子どもが「真正の」家族を構成するという意識は、戸籍の編製単位からはある程度自律しているのではないだろうか?戸籍が個人単位になればこうした意識がすべて消えるというわけではないと予想される上に、こうした意識自体は「夫婦と未婚の子」という単位がまだ現れていない戦前から引き継がれているからだ。ただしこれは、家族単位の戸籍に問題がない、ということを意味するわけではない。戸籍の単位と運用の仕方によっては、こうした意識がもたらす苦しみの原因となる出来事を起こさずに済んだはずだからである。

下夷は、1から2に進むのではなく、1と3とを直接結びつけるべきであった。戸籍がなければ「汚れ」を忌避する意識も生まれず、公的な記録に嫡出子や養子が記録されることを避けるための係争も起こらなかっただろうし、それにともなう苦しみや悲しみもなかっただろう。ただ、そこに「規範」の発生を想定する必要がないということである。

なぜこのようなことを書いているかと言えば、それは、この1から2の移行を想定するストーリーを前提として、「家族単位から個人単位へ」という下夷の意見が正当化されているからである。下夷によれば、戸籍の単位を家族から個人へと変更することによって、「戸籍の呪縛から日本の家族を解放する」ことが可能になる。

しかし、そもそもこの「呪縛」が由来するのは戸籍それ自体ではなく、その他の社会制度や家族にまつわる慣習、信仰、教育などであるとしたらどうだろうか。規範がその力を得るのは戸籍とは別のものからであり、それが「たまたま」家族単位で編成された戸籍をめぐって作用していると考えた方が、資料にフィットした分析となり、無理なことを言わないことにより論述の説得力を増してくれるように思う。戸籍が人々の意識を作る、といえるほど現在の戸籍に力があるとは思えない。それは日常的な感覚に照らしてもそうだし、「人生案内」の事例を読んでもそうである。むしろ、たいして戸籍など気にせずに生きてきた人たちが、「たまたま」不思議な形で編成された戸籍のもたらす問題に巻き込まれている、と考えた方が良い。

であれば、どう考えても莫大なコストのかかる戸籍システムの全面的改編ではなく、人々の意識それ自体を変えていくことで戸籍に関する苦しみを緩和する、という方向の解決策もありうるのではないだろうか。