生まれなかった都市

観測日記とメニュー

日々、ネタ、ドラマ、戦争など

・琅邪榜見終わった。演出のガバガバさとかはあるが素晴らしいドラマだった。とはいえ、般弱とか董路は結局どうなったんだ…特に董路は弔いぐらいしてやれよ。まあもっと長い小説なんでしょうね。あと、割と唐突に民族浄化のエピソードがあったり(すぐ終わる)、過去の過ちを悔いるシーンがあったりするとぞっとする。後半はあんまりバトルがなくて残念だった。あと音楽はとにかくダサい(特にリズム)。

調べたら北京電視台で放送されてたようなので、がっつり国のお金が入っていたようだ。だとしたら「過ちで忠臣や息子を殺してしまったなら、その真実を明らかにして、死者の汚名をすすがなくてはならない」というメッセージ、ブーメランになってない?大丈夫?

 

・ネタ合わせ久しぶりにやってくたくたになった。こんなに疲れるっけな。ただ、やっぱりちゃんとできる人と一緒にやるのは楽しい。

 

・戦争が始まった。これはかなり最悪の部類に入る。「トランプがいたおかけでNKも中共もロシアも抑えられてたんだ!バイデンみたいに弱腰じゃダメ!やっぱり外交は力なんや!」とか言ってる人、頭沸いてるのか?日本人が言うことかよ。

一番懸念すべきは、これが先例になると台湾もおんなじ作戦とれちゃうんだよな。ただ中国にとって台湾は「内政問題」なので、このやり方を即座に適用できるわけではないし、台湾はファシストでネオナチですという主張もかなり無理があるので直接にはつながってこないが、ただ「力による現状変更」完璧オッケーです、やったもん勝ちですということになると何するかはもう予想つくよな。そうなった時に首相が高市だったりすれば本当にどうしようもなくなるぞ。。。

 

digital.asahi.com

 

法の支配が脅かされているウクライナに対して国際社会が「もうあきらめたら」と言ってしまえば、尖閣諸島をめぐって中国が兵力を集結させ、「占領するぞ」と脅しをかけてきたときにどうなるでしょう。今度は日本が国際社会から「あきらめろ」と言われかねません。だから今、日本が声を上げることが必要なのです。

ほんまこれなんだよな。

20220215-16 : 精神病~表現規制

20220215

仕事。

「アワー・コネクション」やはりいい。抑えめで歌っているのがいい。

鈴木大介『脳コワさん支援ガイド』という本が出ているのを知る。『最貧困女子』あたりから『貧困を救えない国』『ギャングース』までは知っていたが最近はこういうのも書いているのか。

うつ病精神疾患が社会問題になるためにはどのような社会的条件が必要で、それが公的支援の対象になるとすればどのような正当化がありうるだろうか。

琅邪榜19話ぐらいまで。謝家の息子が気の毒すぎる。アクションシーンは、滞空時間が長いだけでこんなに剣劇に広がりが出るのに驚いた。

dommuneヒカシューがやってるのに気づいて少し遅くまで聞く。少年ホームランズは知らなかった。8 1/2の「戒厳令」かっこいい。「one pattern」のp-modelは平沢っぽい、と言ってる人がいたが、このアルバムのタイトルにはそういう意図がある。ウクライナはある程度大丈夫っぽい。

20220216

仕事。

近所の郵便局がコロナの影響で閉まっていた。いつ自分に来るか分からん。

琅邪榜22話?まで。薬持ってるのはさすがにやりすぎだろとか、誉王は屋敷の近くにいすぎだろとかいろいろあるが、そこの面白さというよりは、「恣意的な権力者の下で、公正な振る舞いが誰からも期待できない時、人はどういう振る舞いをして、どういう発想になるか」が分かるので、勉強になる。

フィクションとはいえど、登場人物の思考・発想は普通の人に理解できるくらいには理に適っていないといけないし、だからこそ勉強にもなる。フィクションを鑑賞することは充分に人生の役に立つだろう。

久しぶりにツイッターフェミニズムとかをバカにするツイートが流れてきて新鮮な気持ちになった。こういうのを面白いと思う人がまだいるのか。

実際ツイッターで「フェミニズム」っぽいことを言っている人におかしな人がいることはよくあるが、それは他のあらゆる主張に関してそうなので、特段怒りが湧いたり、そういう人々が幅を利かせていることが不正であると感じたりはしない。また、会田誠の「犬」の展示が批判を受けたり(自分は森美に見に行っていて、ゾーニングや状況なども踏まえて展示は問題ないと判断した)、広告表現が批判を受けて取り下げられたり、という出来事に違和感を感じたりすることもあるが、あらゆるフェミニストが同じ出来事に同じ反応を示すとも思わないので、「○○を批判するフェミニスト」、という類型化を行ったうえで、その○○に極端な事例を代入し、その架空の人物を断罪・嘲笑することには反対である。それは偏見であるからだ。また、「女の裸がダメなら男の裸は~」式の批判も、別に裸を批判している人たちではないのだから、的を射ているとは思えない。

最も頭にくるのは、なにか「運動」や「思想」を笑えるものとして持ってくることが、大した吟味もなく「面白い」「尖っている」とされることだ。金属バットが敗者復活でやったつかみも全く意味不明だった。赤が左であることはその人の思想の問題ではないからだ。面白くするにはそれなりの工夫が必要だ。そういう意味で、フェミニズムをいじるのが面白いと思っている人とは距離を取りたい。

20220210-13

20220120

仕事。

帰って来たのも遅かったので琅邪榜流しっぱなしにする。登場人物の表情があまり動かないので、日本のドラマと違って共感性羞恥が反応しない。韓国宮廷ドラマよりコテコテじゃないのもいい。キャラも立ってる。ニュースとか読んだり、だらだらする。

ウエラン井口が佐久間のyoutubeに出てるのを見る。くだらなくて面白い。

ティン・パン・アレーいしだあゆみ「アワー・コネクション」素晴らしい。冒頭のギターだけで名曲とわかる。こうやってジジイになっていくんだろう。。。

 

20220211

10時起床。二日酔いで頭痛がすると思ったが、多分肩こり。寝ながら仕事について考えていたらミスを思い出したので、起き抜けに着替えてすぐ会社に。

ミスを修正して、そのまま歩いて八事のそば屋に行く。狭いカウンターにキチキチになって食べる。入口すぐにストーブがあってちょっと暑い。

天丼セットにしたが、名古屋の天つゆが甘いのを忘れていて、吐きそうになる。隣の席の人はとろろご飯とセットにしていた。次はそうしよう。牡蠣のそば粉焼きや白魚の天ぷらもうまそうだった。

すこしぶらぶらしてたらやっぱりひどく頭が痛くなったので、いったん帰って風呂をためる。自宅の風呂に入るのは一人暮らしを始めてから初めて。狭いが、思ったより体が動くようになるし、東京と違って銭湯も遠いので、けっこういいかもしれない。洗濯して待ち時間にちょっと仕事する。風呂の水を洗濯に使うホースを今度買う。

洗濯してから『テトラローグ』読み切る。やっぱり戯曲・対談形式の文章が哲学への「入門」に最適であったり簡単であったりするとは思えない。むしろ何が論点になっていて、どこで話題が変わるのか全く分からないので結構きつい。ただ、読み物としては面白かった。「タルスキー」と「タルスキ」に表記ゆれあり。

一番よかったのは相対主義批判で、これは忘れないうちにちょっとまとめておく。

相対主義」といっても強いものと弱いものがある。もっとも強いものは「ある主張が真であるか偽であるかは決定不能であり、そのような議論は調停不可能な対立を呼ぶだけなので、われわれは「真偽」のような概念を使うべきではない」という立場である。たとえば、「コロナは危険な病気である、というのは本当か?」という問いへの答えは人によって異なる。こうした相違は対立を呼ぶのだから、われわれはそうしたことについて真偽の判断を下すべきではない、という意見がこれにあたる。

ただこの立場はかなり擁護が難しい。なぜなら、「コロナは危険な病気である、という主張は真実である」という主張は、「コロナは危険な病気である」という主張と、ほとんど変わらないからだ。

主張の真偽は事実との対応で決まる。そして、われわれは通常事実に即したことを言う方が、事実に即していないことを言うより良いと考えており、この規範に従って、事実に即したことを言うことが多い。だとしたら、「コロナは危険な病気である」という主張がなされる場合、それは「コロナは危険な病気である、というのは真実である」という主張を短くしたにすぎないことになる。

であれば、われわれの主張に「真偽」という言葉が使われていなくても、対立を呼ぶ意見の相違は生じることになる。もし根本的な意味で「真偽」の概念を捨てた場合、われわれのあらゆる主張は完全にランダムなものになることになる(「目の前にりんごがある」と発言した人が、「目の前にりんごがある」(真)とも「目の前にりんごがない」(偽)とも思っていないとしたら、そうした人は他人と対話ができないだろう)。真偽という概念を捨てることは非常に難しい。

では今度は相対主義を一段階弱めて、「ある主張を真と考える者は、その主張を偽と考える者に対して寛容になるべきだ/主張を押し付けるべきではない」(以下、このテーゼをRとおく)という立場を想定してみる。これが普通の人が考える、いわゆる「相対主義」に最も近いだろう。

ただこの立場も難を抱えている。なぜなら、この「相対主義」の立場を貫徹するなら、Rという主張の正しさを主張することはできなくなるからだ。「寛容になるべきだ」というのは道徳的態度に関する立派な主張であり、この主張に対して相対主義を適用する場合、「Rを真と考える者は、Rを偽と考える者に対して寛容となるべきだ/主張を押し付けるべきではない」という立場が生まれることになる(いわば、RにRを「代入」しているわけだ)。

理屈上、この代入は何度でもできる。しかし、この代入に何か生産的な意味があるだろうか?また、そもそも「寛容になるべきだ」という価値判断を他者に「押し付け」ないとしたら、この立場の存在意義はなんだろうか?

であればさらに相対主義を弱めて、「ある主張を真と考える者も、偽と考える者もいる」という立場にしてみよう。ここまで来ると、もはや立場とは呼べない。なぜなら、「コロナは危険な病気ではない」と断言する者(明らかな絶対主義者)ですら、この立場には同意できるからだ。

おわり。

 

読み終えて、そのまま星が丘のとんかつマメゾンへ。すいてる時間だったのでよかった。やはりうまい。福田和也がとんかつについて悲しい文章を書いてたが、あれ読まないと。

 

そのまま歩いて図書館。『中央公論』3月号。urbanseaの記事よくまとまってる。増田さん頑張ってほしい。飯田泰之の文章も面白い。井上正也もなんか書いてた。阿部彩と森雅子の対談、なんかぬるかった。『貧困を救えない国・日本』の時は阿部と鈴木の立場の違いが面白かったような気がするが、今回の対談は自民党太鼓持ち感がかなりあってうーんという感じ。あと家庭に対する捉え方の偏りもあるだろう。

新書大賞の記事読む。小島『サラ金の歴史』がぶっちぎり一位なのは納得。というか、今年度に限らず、過去の新書の中でもトップクラスに面白く、力強い作品だったと思う。サラ金の源流が、普通に働きながら小金を貯めて、友人・親類や同僚に高利で金を貸す「素人高利貸」にあったという話は面白かった。また、サラ金への批判が民族・職業差別とつながっているのではないかという指摘も興味深く読んだ。著者は経セミの対談でも、定量的な経済史研究の歴史叙述が持つ危うさについて喋っていたが、そういう問題意識がある人なんだろう。

ざっと見た感じ『氏名の誕生』『労働組合とは何か』『防大女子』あたりが面白そう。少し意外なランクイン作品もあった。にしてもハンセン『スマホ脳』も斉藤『人新世』もランクインしてないのか。『ゲンロン戦記』評に「東は言論界の渋谷陽一になるんじゃないか」とか書かれてたがそれでいいのか。斎藤浩平?が『デジタル・ファシズム』を推してて少しびっくり。ざっと見ただけなので見間違いかも。NHK出版なのね。

他の雑誌もざっと目を通して帰る。

酒飲みながら谷口隆『子どもの算数、なんでそうなる?』最高。小学生にデシリットルを教える意義や、掛け算の順序と日本語の文法の関係など、面白い論点満載の上、挿絵がかわいい。

Weyes Blood流す。Andromedaいい曲だな。こんだけやって下品にならないのだからすごいセンス。カサノヴァ『近代世界の公共宗教』冒頭。面白くはないが勉強になる。果して読み切れるだろうか…

琅邪榜、飛流がかわいい。

20220212

起きてすぐ風呂貯めて入る。天気よすぎ。16時とかまで用事。

 

ずっと頭が痛いので試しにマッサージに行ってみる。熊本出身の女性が一人でやってる店だった。かなりえぐいひねりを体中に加えられて頭がぼーっとした。ただ、頭痛は完全に改善した。施術中、小声で「凝ってんな…」「かったい…」とか言われるので不安になる。運動しよう。

普通だったら飲みに行くがいくらなんでも、、という状況なので帰る。自分は若いし、コロナをそこまで恐れてない方の人間だと思うが、今の雰囲気はそれでも少し怖くなるぐらいの感じだと思う。

琅邪榜。急に新キャラが出てくるな。カサノヴァ『近代世界の公共宗教』2章ぐらいまで。やっぱり面白くないが、問題意識はよく分かった。広瀬『ちいさい言語学者の冒険』濁音のルールなどについてひざを打つ。松本『世界一やさしい依存症入門』面白い。そういえば瀧波ユカリってどうしてるのかなと思って調べて、マンガ読む。

20220213

起きてすぐ風呂入る。散歩がてら平和公園の池を見に行く。浚渫工事中なので面白くもなんともない。すぐ引き返す。

玉木『金融化の世界史』面白かった。工業化するほど広くもないし、かといって昔ほど砂糖も売れなくなった旧・現イギリス領のカリブ海の島(元植民地)がタックスヘイブン化するというのはヘーと思った。ただちょっと金融disが強いかも。『現代エリートの平等観』翻訳みたいな本だった。

 

20220209

仕事。21時退勤。

仕事終わらずいろいろ粘ってたら昼食が3時になってしまった。

 

夜はろうやぼう2話。面白いんだけどなかなか進まない。

Raczynskiもかっこよすぎてなかなか聞き進まない。

Samurai Math Beats、日本語のサンプリングが今っぽいなと思ったけど1995年なのね。言われてみればドラムンベースの感じはそういう時期のものなのかも。

 

Last of Us 2 ちょっとやって『テトラローグ』読む。

杉並区の住民税が払えなくて督促が来ていた。

20220205-08

20220205

前日遅くまで仕事してから酒飲んだので目覚めは悪い。10時ぐらいに起床。だらだら布団にいたら11時。BellatorのU-NEXT配信の見逃しが6日までだったので急いでみる。モルダフスキーはあんだけ投げて負けたらちょっと悔しいよなあ。正直勝ったベイダーも納得いってなさそうだったぞ。しかし確かに5Rは大して決まってなかったし、ひじもがっつり入ってたからしょうがないかもね。バルゾラとコールドウェルが一番面白かったかも。ホマシ、ミハイロフもよかった。

会社行ってちょっと勉強。『[改訂版]経済学で出る数学 高校数学からきちんと攻める』

www.nippyo.co.jp

何度も同じところを飽きるまでやるのでなかなか進まないが、利回りの計算、株価の決まり方、平均割引現在価値、連続時間での利子率あたりはさすがに覚えた。理解できても覚えなきゃ意味ないので。これはいい本だなあ。普通に経済学・数学を勉強してると突き当たる、細かい意味不明さをちまちま説明してくれるので大変良い。高校生がやると楽しいかもね。

ニトリのNウォーム洗濯するの忘れてたのでスギ薬局で洗濯ネットを買っていったん帰宅(15時ぐらい)。洗濯待つあいだもう少し数学。U-NEXTのmnet TVを流しっぱなしにする。ダンスのオーディション番組だが、面白くないなあ。

Nウォーム干しっぱなしにして砂田橋の銭湯へ。男女の空間がつながってるタイプ(番台から完全に見通せるタイプ)の古い銭湯。番台含めほぼ誰もマスクしてない。洗面台の鏡に広告が貼ってある。お湯はまあ熱いかなぐらい。露天は少し冷たいがまあこんなもんかな。ダラダラ入ってたら1時間経ってしまった。大幸浴場?みたいな名前だったかな。石鹸が売ってるのかどうか分からず、声をかけるほどじゃないなと思ったので風呂につかるだけだったが満足。砂田橋ってこんなに何もないのか。老人しかいないし、よく分からない街だな。

少しうろうろしてたら雪が降ってきた。特に食べたいものも見当たらず、茶屋ヶ坂アピタは人がいっぱいいたのでとんかつは断念して、八事の家系ラーメンで夕食。内装を頑張ってない店。若者二人。まずかった。まあこんなもん。大雪でNウォームは乾いてない。

家帰って工藤静香のファーストコンサートやら何やら流しながら矢作敏行『コマースの興亡史』eコマースのさわりまで。面白かった。「学問」を見せつけられた感じだが、50年選手なのか…。伊藤俊一『荘園』平安の直前まで。面白い。田堵ってそういう存在なのね。

あと爆サイのチャトレ板読んでた。全然飽きない。「爆乳大魔神 死ね」とか書いてあって笑う。そんな名前でアダルトチャットをやるなよ。

 

20220206

朝早めに起きて仕事してたが、長谷川『メディア論』返却し忘れていたので鶴舞へ。これはいい本だけど、ちょっと古いかも。行きたくないのでダラダラしてしまったがこういうのはほんとによくないな。

鶴舞公園はだれもいなかった。味噌ラーメン食ってすぐ帰ろうかと思ったが丸善名古屋本店で農文協特集やってたのを思い出して栄に立ち寄る。ただ特集自体は面白くなかった。ベンジャミン・クリッツァー『21世紀の道徳』、井上・青木『イケズな東京』、満園勇『日本流通史』、ティモシー・ウィリアムソン『テトラローグ』など買って¥17000也。はあ…電車でクリッツァー読んだけど、なんかブログより丸くなってた。あと中公新書ラクレすごいな。てか井上章一はこんなことやってる場合なの?

移動したりするちょっとした時間にいくつか論文。森村進の自由論文よくまとまってた。「分析哲学の心理学的起源」みたいなタイトルのやつも面白かった。

自宅戻って仕事進めてたが大喜利やりたかったので名駅へ。途中で抜けてすみませんでした。学生たちのノリがなんとなく懐かしくてよかった。みんな面白かった。うまくこういうのに合わせて仕事とか休みとかコントロールできればいいのだが、ちょっとこういうのは仕方ない。

帰って仕事進める。

 

20220207

仕事。前日からBogdan Raczynskiをずっと聞いてるがかっこいいね。IDMって言うのか。

夜は食事しながら鎌倉殿5話。宗時死んだ。宮沢りえかわいいなあ。横田進のfallen angel流す。ウィリアムソン『テトラローグ』面白い。爆笑しながら読んだ。ただ、入門になっているかというと微妙だと思う。対談形式の方が読みにくいよね。あとニーチェとかポモとか好き放題バカにしてる感じも、分かる人にはわかるけど微妙かもと思った。 

 

20220208

仕事。

夜は琅琊榜。今んとこ全然分からん。中国の時代劇は人が飛んだり回ったりするなあ。

なぜそんなに戸籍が重要なのか(下夷美幸『日本の家族と戸籍——なぜ「夫婦と未婚の子」単位なのか』)

下夷美幸(2019)『日本の家族と戸籍——なぜ「夫婦と未婚の子」単位なのか』、東京大学出版会

日本の家族と戸籍 - 東京大学出版会

目次(飛ばしてよい)

第1章 戸籍の何が問題なのか
第2章 「家族単位」という選択――民法・戸籍法改正案起草委員・幹事の「回顧談」から
第3章 「家族単位」成立の時代性――法務官僚の「回顧談」から
第4章 戸籍と格闘する人々――婚外子にまつわる「身の上相談」から
第5章 戸籍の不条理――結婚・離婚・再婚にまつわる「身の上相談」から
第6章 家族政策としての戸籍制度

 

要約

1871年の戸籍法以降、戸籍は日本国民の家族の形の基礎として力を発揮し続けてきた。旧民法の「家」制度が撤廃された戦後ですら、「家」に代わって「夫婦と未婚の子」を戸籍の編成単位とすることで、「結婚した夫婦とその子からなる家族こそが正当な家族、とみなす考え方」すなわち「「婚姻家族」規範」が国民に浸透していった(1章)。

そもそも個人の身分に関する公証ツールにすぎない戸籍が戦後も家族単位で編成されたのはどのような事情があったのか、川島武宜我妻栄、横田正俊、村上朝一といった戸籍法改正案の起草委員たち、また実務に関わった司法省官僚・青木義人などの言葉をもとに記述する(2・3章)。そこで分かることは、戸籍のイデオロギー的側面に自覚的であるがゆえに戸籍の個人カード方式を提唱した川島をはじめとして、一部の当事者たちは「家族方式よりも個人方式がベターである」と考えており、GHQからもそうした圧力が与えられていた、ということである。それでも家族単位が選択されたのは、

  • 戦後の紙不足
  • 相続に際する家族単位戸籍の機能性の高さ
  • 家族を別々に記述することに伴う業務過多
  • スムーズな事務作業のために必要な役人および戸籍請求者の共通了解の維持
  • 保守派および一般大衆からの戸籍に対するこだわり・個人単位の戸籍に対する反発(婚外子が戸籍に記載されることは「戸籍が汚れる」として忌避された)

などに直面してのことであり、一言でまとめるならば戸籍に対する技術的な関心が上回ったがゆえの帰結だった。しかし、戸籍が電算管理されるようになった現在であれば、個人単位の戸籍を中央のデータベースにひとまとめにすることも不可能ではないはずであり、「忘れられた理念」としての個人単位は今こそ復活させることができるのではないか。

個人単位の戸籍が重要なのは、それが機能的に家族単位を上回るからというよりも、家族単位の戸籍が人々の暮らしにもたらす弊害が存在するからである。4章と5章は、そうした弊害がいかなるものであり、何がその弊害の原因なのか、60年以上にわたり連載されている読売新聞の「人生案内」から事例を拾い上げ、それらを分析することで明らかにする。

筆者が「人生案内」に掲載された相談内容に見出したのは、戸籍を家族と同一視する「「戸籍=家族」観念」であった。この観念は、戸籍を家族の判断基準とする態度であり、「婚姻している夫婦と未婚の子」という規範に収まらない「父親に認知された/されていない非嫡出子」をめぐるトラブルや、非嫡出子に対する差別意識を生産する。

たとえば、自宅出生が減少しほとんどの出産が病院などの施設で行われるようになる70年代以前には、非嫡出子が戸籍に記載されることを避けるため、生まれた非嫡出子を兄弟姉妹や父母の嫡出子として届け出ることが多々あった。結果として子どもは生みの親とは異なる存在を父母として認識し、その名字の下で生きていくことになる。

また、父親が婚姻している母親以外とのあいだに設けた非嫡出子に関しては、旧民法上は父親から認知されれば「庶子」として戸籍に登録されたが、戦後は認知があっても婚姻家族側の同意がなければ入籍できないようになった。結果として、非嫡出子は父親から認知されにくくなり、また認知されても自らの望む戸籍に入籍できない可能性が生まれた。婚姻家族としては、相続の関係上できるかぎり家族外の非嫡出子の入籍は避けたいはずである。また非嫡出子や養子などの情報が戸籍に掲載されることは、当事者にとって辛い出来事であるだけでなく、進学・就職・結婚といったライフステージ上のイベントにおいても当人に不利をもたらす可能性が高い。

他にも、離婚を経て再婚した男性の子どもを新しい婚姻家族の戸籍に入れるか否か、離婚を承諾しない夫から逃れた先で事実婚状態で設けた子どもの戸籍を元夫の戸籍から外すことができるかどうかなど、戸籍が家族単位であるがゆえに起こるトラブルは多岐にわたり、それが長年の間さまざまな人びと、特に「婚姻家族」規範から外れた人々に苦しみや悲しみを引き起こしている。こうした状況は是正されねばならず、筆者がその解決策として提示するのが、個人単位による戸籍の編製である。

重要箇所引用(飛ばしてよい)

出生登録を偽ることは、子の一生に関わる重大な問題であるが、婚外子の母親もその親族も、非嫡出子の記載を戸籍の「汚れ」とみなし、これを回避しようと真実を曲げて届け出るのである。人の存在証明の真実性よりも、戸籍の「汚れ」を忌避する意識が上回り、当事者や周りの親族がこぞって嫡出子至上主義に陥っているのは、婚姻届けを出した夫婦とその間に生まれた子のみからなる家族こそが正当な家族であり、「あるべき家族」である、とみなす「婚姻家族」規範が社会に浸透していることの反映である。(239)

こうしてみると、氏に基づく家族単位の戸籍制度が、人びとの「家族」に関する認識枠組みに影響を耐え、「婚姻家族」が規範として浸透し、さらにその「婚姻家族」規範のもとで戸籍制度が運用されることにより、規範が強化されているのが分かる。(241)

婚外出産、離婚、再婚の当事者は、「夫婦とその間に生まれた子のみ」の戸籍、あるいは、限りなくそれに近い戸籍を確保しようと懸命になっている。それは「婚姻家族」規範に縛られ、それに抗することもできず、もがき苦しむ人々の姿である。(243)

就職や結婚といった人生の重要なイベントで戸籍謄本が活用されることから、人々は不利を被ったり、差別を受けたりしないよう、「婚姻家族」の戸籍にこだわるのである。こうして、家族単位の戸籍は人々に「婚姻家族」という「あるべき家族像」を目に見える形で示し、それが人生を左右するものとして意識化され、規範化されていくのである。そして、戸籍制度に裏打ちされた「婚姻家族」規範は、広く人々の家族に関する意識や行動の基準となり、現実の家族を「婚姻家族」という「あるべき家族像」へと方向づけていく(247-248)

筆者はこの家族単位の戸籍が日本の家族のあり方の基底をなしてきた、と考えている。つまり、民法(家族法)と戸籍法が一体的に運用される仕組みのもと、事実上、親族単位の戸籍が日本社会における家族のあるべき姿を作り上げてきた、という見方である。そしてそれが、現代の家族が抱える問題にも通底しているのではないか、とみている(18)

感想

面白い本だったが、同意できない部分がいくつかあった。

上に引用したように、本書の基底をなす論理は以下のように展開している。

  1. 戸籍が家族単位で編成され、それが国民の日常生活において運用される。
  2. 「婚姻家族」規範が国民の意識に刷り込まれる(=個人が戸籍という家族イデオロギー装置を通じて主体化される)
  3. 嫡出子至上主義や戸籍の「汚れ」を忌避する発想が生まれる。
  4. 戸籍をめぐるトラブルが司法、行政、生活の場で起こり、その結果、規範(2)が強化される。

この1から2への移行を説明する論理として下夷が引用するのが、利谷信義や松浦寿輝(「国家という装置」には国民を登録し定位置に固定しようとする「非人称的な欲動」がある…)であるが、あまり説得的とは言えない。

というのも、まずそもそも彼らの論述が「上から」の論述、言い換えれば概念により出来事を説明する方向性の議論であり、実際に国民意識がそのような制度の下で生産されたかどうかという事実レベルで立証されたものではないからだ。この上からのベクトルとは逆方向の性質を持つものとして本書の4・5章は位置づけられなければならないだろう。すなわち、国民が自分たちを「国民」として分類し、家族が自分たちを「家族」として分類する、そのカテゴリーの適用がどのような言語的連関のもとで営まれており、そこに家族単位の戸籍がどのように作用しているか、ということを「人生案内」をもとに確認する作業があってはじめて、1から2への移行は達成される。しかし、4・5章の記述はそのような目標を達成するようにはなされておらず、むしろ1章で構築した上記の論理を反復し、そこに資料を位置づけているだけになってしまっている(部分がいくつかある)。

また、1から2への移行を実証するため、下夷は戸籍の日常性を強調し、この日常性ゆえに戸籍が人々の意識を形成していくことを強調するが、引用された「人生案内」を読むかぎり、むしろ日常的には事実婚であったり、養子であることを意識しなかったり、あまり問題のない日常を送っている人たちが、結婚や離婚をきっかけに戸籍を見たことで「汚れ」に気がついたり問題が露見するというパターンが多く、むしろ日常的なルーティンとはすこし外れたところに戸籍が位置付けられているように読める。

確かに、戸籍の「汚れ」を避ける意識は、「夫婦と未婚の子」単位という戸籍の編製と密接に関わっているだろうが、その戸籍が日常生活に浸透することで「婚姻家族」規範が人々の意識に植え付けられた、と想定する正当な理由はない。とはいえ、ここについては下夷も慎重であり、上で引用したように「事実上、親族単位の戸籍が日本社会における家族のあるべき姿を作り上げてきた」という言葉を使っている。しかし、「事実上」とはどういう意味だろうか?「結果的に」という意味であれば、すでに書いたように実証的な裏付けを欠いているというしかないだろう。これは、下夷が自身の文献調査の本書における役割を説明する適切な言葉を持っていないことを意味しているのではないだろうか。

加えて、249ページで下夷は日本の婚外子率のグラフを引き、「日本の婚外子率は戦後急速に低下」しており、「この動きに戸籍制度が影響していないはずがない」とまで書いているが、グラフの傾きはグラフの横軸の左端である1920年から65年までほぼ変化しておらず、婚外子の減少が特段戦後の現象であると断言することは(少なくともこのグラフからは)できない。であれば、戦後はじめて戸籍の編製単位となった「夫婦と未婚の子」をモデルとする「「婚姻家族」規範」の存在を想定する必要もない。さらに言えば、規範が戸籍の運用により「強化」される、というのも、よくわからない。何をもってであれば、規範が「強化」されたと言うことができるのだろうか?

婚外子を避ける意識、結婚届を出した夫婦とその子どもが「真正の」家族を構成するという意識は、戸籍の編製単位からはある程度自律しているのではないだろうか?戸籍が個人単位になればこうした意識がすべて消えるというわけではないと予想される上に、こうした意識自体は「夫婦と未婚の子」という単位がまだ現れていない戦前から引き継がれているからだ。ただしこれは、家族単位の戸籍に問題がない、ということを意味するわけではない。戸籍の単位と運用の仕方によっては、こうした意識がもたらす苦しみの原因となる出来事を起こさずに済んだはずだからである。

下夷は、1から2に進むのではなく、1と3とを直接結びつけるべきであった。戸籍がなければ「汚れ」を忌避する意識も生まれず、公的な記録に嫡出子や養子が記録されることを避けるための係争も起こらなかっただろうし、それにともなう苦しみや悲しみもなかっただろう。ただ、そこに「規範」の発生を想定する必要がないということである。

なぜこのようなことを書いているかと言えば、それは、この1から2の移行を想定するストーリーを前提として、「家族単位から個人単位へ」という下夷の意見が正当化されているからである。下夷によれば、戸籍の単位を家族から個人へと変更することによって、「戸籍の呪縛から日本の家族を解放する」ことが可能になる。

しかし、そもそもこの「呪縛」が由来するのは戸籍それ自体ではなく、その他の社会制度や家族にまつわる慣習、信仰、教育などであるとしたらどうだろうか。規範がその力を得るのは戸籍とは別のものからであり、それが「たまたま」家族単位で編成された戸籍をめぐって作用していると考えた方が、資料にフィットした分析となり、無理なことを言わないことにより論述の説得力を増してくれるように思う。戸籍が人々の意識を作る、といえるほど現在の戸籍に力があるとは思えない。それは日常的な感覚に照らしてもそうだし、「人生案内」の事例を読んでもそうである。むしろ、たいして戸籍など気にせずに生きてきた人たちが、「たまたま」不思議な形で編成された戸籍のもたらす問題に巻き込まれている、と考えた方が良い。

であれば、どう考えても莫大なコストのかかる戸籍システムの全面的改編ではなく、人々の意識それ自体を変えていくことで戸籍に関する苦しみを緩和する、という方向の解決策もありうるのではないだろうか。