生まれなかった都市

観測日記とメニュー

旧中村遊廓の中村病院・弁財天・濠の位置について

中村病院

明治20年12月、名古屋区竪三ツ蔵町(現・中区栄1丁目)に名古屋駆梅院が設置(すでに熱田には駆梅所が存在した)され、翌年4月に愛知駆梅院に改名、明治22年3月に県立駆梅院として県立愛知病院から独立し、県立駆梅院となる。細かい経緯はリンクから名古屋市史に飛べば分かる。

crd.ndl.go.jp

memo:NDLの個人送信で『名古屋市史』(1968)政治編第3巻570頁を参照した。昭和36年『愛知県衛生年報』には「22年3月県立愛知病院から分離して発足」とあるが、『名古屋市史』にはない。

大正12(1923)年に大須から中村へと遊廓が移転するのにともない(中村遊廓の誕生)、この駆梅院も中村へと移転、名称は(県立名古屋診療所だったが、その後)県立中村病院となる。(※2023/3/14 後述の執筆者さまからご教示いただき、下線部を追記しました。)

昭和21年、公娼制度は廃止されるが、「給仕婦組合」(名前が変わっただけ)の要請により検診を継続。中村遊廓も名楽園へと名称変更、貸座敷は特殊飲食店となり、赤線時代に突入する。

面白いのが、昭和36年『愛知県衛生年報』に、「戦後急激に増加してきた散娼に対しても公衆衛生上の見地から検診業務を行なった」とある。中村病院を存続させた公娼たちもさることながら、散娼(いわゆる「立ちんぼ」に近い?特定の組織に所属しない娼婦)の動向が見えていた当局者の判断が興味深い。

昭和23年に性病予防法が施行されると、広く一般県民の性病診療に門戸を開き、同時に泌尿器科産婦人科などを増設、一般診療へと手を広げたが、33年4月に売春防止法が施行され、赤線が廃止されると、集団検診業務の終了とともに、35年には業務を縮小して中村診療所に改称、36年3月に閉鎖される。

ただ、34年4月の時点で、病院内に愛知県立中村准看護婦学院が設立されており、そちらは35年9月、中村診療所?の設備を引き継いで設立された県立高等看護学の内部で存続する。准看護婦学院は44年に閉鎖、高等看護学院も46年、現在の総合看護専門学校に統合される。

問題は中村病院の住所で、今年出版された『愛知の大正・戦前昭和を歩く』(風媒社、溝口常俊編)には「病院跡地には多くの娼妓たちが渡った橋の一部がわずかに残されている」とある。これがどこか分からなかったので、まずいったんさっき挙げた『愛知県衛生年報』から住所を「中村区道下町3丁目1番地」に特定し、http://www.tokei-gis.city.nagoya.jp/index.asp?dtp=7 から当時の地図で具体的な場所を割り出した。素盞男神社の真裏である。

追加情報として、『愛知の大正・戦前昭和を歩く』には長寿楼がまだ残存しているかのような書き方がされているが、おそらくもう無い。※(2023/03/14)執筆者の方からご指摘いただきまして、現・松岡健遊館として長寿楼はあるそうです。私が長寿庵と勘違いしていました。失礼しました。

 

弁財天

かつて遊廓の西側に遊里ヶ池という池が存在した。遊郭の土地造成時、土砂を掘った跡地に水を張ったもので、貸しボートや花火大会など、周辺住民が集う場所となっていた。不忍池をモデルとして、「市民の娯楽・慰安の場」とすることを目指し、1925年には弁天堂が設置された(琵琶湖の竹生島からお迎えした。細かいことは溝口編2023参照)。

現在、池は埋め立てられ、跡地には中村日赤がある。しかし弁才天中村日赤の敷地内に移築されており、中村日赤駅を2番出口から降りて左に曲がって少しだけ歩いたらすぐにその後姿を柵越しに見ることができる。実際に正面から見るには救急入口を横切らなければいけないのかもしれない。

 

詳しく書こうと思ったが疲れたので忘れないようにメモだけ残しておくと、太閤通焼肉屋(バス停「大門通」付近)から斜めに遊廓側へと入っていき、そのまま道沿いに歩いていけば、道路が突然細い通路になるので、そこが暗渠である。それまで歩いてきた道は濠ではなく、徳佐川という農業用水路の跡である。